la dolce vita

記者による映画解説(ネタバレあり)。ときどき書籍にも言及します。

映画『ハルコ村』を観る

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山形国際ドキュメンタリー映画祭金曜上映会で、サミ・メルメール監督『ハルコ村』を観てきた。YIDFF2019アジア千波万波部門の奨励賞作品らしい。

トルコのアナトリア高原にあるハルコ村(監督の故郷)は、酪農や内職で辛うじて生計を立てる貧しい村で、ために男たちは出稼ぎ先を求めてアンカラや欧州に渡って行ってしまう。残された妻、母たちは毒づきながらも身の上を案じ、たまの連絡と送金で生きていることを確認する。

映画の中盤、出稼ぎ先から「50歳になったら欧州には住めない。故郷で暮らしたい」と嘯いて帰ってきた監督の叔父が現れる。村の若い女の結婚式、婚期を過ぎかけた娘(監督の従姉妹か?)に叔父は厳しく諭し、また海の向こうへと帰っていく――。

ハルコ村は女たちだけの村というわけではなく、一応若い男たちもいるようだ。だが、相変わらず村の生活は貧しい(一応スマホは普及しているようだ)。欧州に渡って行った男たちも向こうで勝手に故郷を捨てて所帯を持ち、中には妻を残して出稼ぎに行った50年後に破産して帰ってきて、その間育児から家屋の修築まで家の一切を取り仕切っていた妻に相手にされず捨てられていく、などというケースもあるようだ。

作中の被写体は村人のなかでも監督の実家であるメルメール家の人間たちだが、揃いも揃って歴戦の肝っ玉おっかあで、彼女らが切り盛りして培ってきた土地と時間と記憶が、このドキュメンタリー映画の主人公であり、その裏にある孤独を前にした弱さというものもその表裏一体のテーマなのだろう。

あと、土地と血族をテーマにするとやはりガルシア=マルケス百年の孤独』のオマージュめいたところ、意図せず似ているところがあって、その手の作品を作る方法論としてもなかなか面白みがある映画だった。それはそれで表現の画一化で、決して褒められるべきことではないのだが。

映画『ペイン・アンド・グローリー』を観る

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フォーラム山形にて、映画『ペイン・アンド・グローリー』を観てきた。

スペインの世界的映画監督・サルバトールは、背中の痛みや母を喪ったショックから来る軽い鬱状態で引退同然の日々を送っていたが、ある日32年前の映画のシネマテーク上演の依頼が届く。当時対立して絶縁状態だった主演男優のもとを訪れ、和解する際に貰ったヘロインが彼を過去への旅路に誘う。

主演男優アルベルトは、ひょんなことから『中毒』という脚本がPCの中のストック作品として残っているのに気が付く。読んでみたらこれがまた面白い、ぜひ主演でやらせてほしいと訴える。ヘロイン中毒に傾いていたサルバトールは、男優とのすったもんだの末に上演の権利を譲り、公演は大成功に終わる。すると観客席で泣いていた男がアルベルトの楽屋、次いでサルバトールの許を訪れた。男はかつてのサルバトールの恋人だったのだ。回想に耽り、人生の妙味に癒されるサルバトール。

このことをきっかけに、彼は医療によって病を完治させ、ヘロインとも訣別して映画の現場に復帰することを決意。パートナーのメルセデスにある日誘われて行った美術マーケットで、彼は小さい頃の自分がモデルになった絵画を見つける。それは引っ越して行った洞窟の家で、読み書きを教える中で仲良くなった左官職人の青年が描いたものだった。彼の過去の記憶が一気にそれに縮約される。偶然目にした青年の裸体に、彼は何とも言えぬ倒錯した性の衝動を感じたのだ。やがて少年時代の思い出は、快復したサルバトールの復帰作、『最初の欲望』へと収斂していく――。

 

アルモドバル監督版の『ニュー・シネマ・パラダイス』だ!という惹句があったので観たわけだが、トトとの思い出の回想だけだった『ニュー・シネマ・パラダイス』よりも遙かに複雑な構造となっており、同作のような感動を求める観客には合わないと思った。構造化の大きな因となっているものがサルバトールの作中作である。

作中作の使い方、こういう物語で、しかも映画監督を主人公とした場合の作中作は得てして自伝的作品へのナルシシズムへと陥りがちなのだが、本作は追憶のシーンがラストに『最初の欲望』の撮影へと回収される驚きがあり、サルバトールの目線を通じて独立した芸術作品として二重に楽しめるものとなっている。

更に、作中作の『中毒』の上演がまた迫真性があって面白い。薬物中毒者の悲しい物語なのだが、アルベルトを演じる俳優の演技がうまくて、本当にこういう作品があるなら観たいと思わせてしまう魅力がある。世田谷パブリックシアター(ぼくの嘗てのバイト先)のシアタートラムなんかでやってもらうなら観に行くぜ!と思ってしまった。

映画としては人生論映画になるかも知れないが、ぼくはストーリーの書き手でもあるので、作中作という知的なスパイスは実は諸刃の剣であるということ、闇雲に芸術家の主人公に作中作を作らせればいいというものではないということを実践の場で学んでいくに際しては、この映画が良い教材になるだろうと思った。

映画『エジソンズ・ゲーム』を観る

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フォーラム山形で、映画『エジソンズ・ゲーム』を観てきた。エジソン役の主演はベネディクト・カンバーバッチ

時は19世紀末、エジソンは苦心のすえ、白熱電球を発明しエジソン・エレクトリック社を設立して大成功。一方、実業家のウェスティングハウスは、大量の発電機が必要なエジソンの直流よりも、コスト面での課題と大陸の広さにおける発電所設置の非効率性を解消する交流が重要と考える。そして、色付きの給金でエジソンに採用されたはずの科学者テスラは交流派で、頑として直流を譲らないエジソンを見限って去ってしまう。

ウェスティングハウスは交流による送電実演をマスコミ相手に行い、話題を攫う。自分のアイデアを盗用されたエジソンは交流は使用者を事故死に追いやる危険な技術だとして、馬を感電死させるなどのデモンストレーションでウェスティングハウスの交流の評判を下げ、ここに直流対交流の電力ビジネス対決が幕を開ける。当初は実際に参謀となっていた老技術者が配線を誤って事故死し、勝負あったと消沈したウェスティングハウスが事業を畳むことを考えるまで追いつめられる。だが、勢力は次第に拮抗し、互いに死刑囚を処刑する電気椅子の開発に絡む訴訟まで行われる始末。

最終決戦の地は万国博覧会が行われるシカゴで、世界中の訪問客に電気提供社としてPRできる絶好の機会だった。資金繰りの関係でゼネラル・エレクトリック社へと社名が変更され、地位も社名も引きずり降ろされたエジソンは最後の望みを部下のプレゼンに掛けるが、ウェスティングハウスに抜擢され水力発電の仕組みを開発したテスラの貢献による低コストプランに軍配が上がった。シカゴ万博も電気椅子処刑もウェスティングハウスの電気提供で執り行われる。万博では名声を博した一方で、電気椅子は死刑囚が惨めに焼け死ぬ結果となり、「人殺しの技術は作らない」というエジソンの名誉は結果的に守られることとなった。

万博会場でエジソンウェスティングハウスは出会い、一勝一敗あった感のある佇まいのウェスティングハウスエジソンの発明における甚大な労苦に敬意を表する。互いに親しく挨拶を交わし、ウェスティングハウスは電力普及ビジネスで、エジソンはまた新しく発明した映写機で後日大いに成功した――。

 

映画(原題はThe Current Warでしょ。タイトル付けなんとかならんのかなあ)はよく知られているエジソンを、必ずしも美化していなかった。もちろん電球発明の父としての功績は紹介されていたが、物語のスタート時点で既に成功者となっていたせいか「発明家」よりも「実業家」としての比較的地味な側面が強調されていたように思える。衣服もほかの登場人物と較べて然程の違いはないせいか、大勢の人間が集まる場面ではカンバーバッチの顔を必死で探さねばならないほどだった。

自然、エジソンのラディカルな面が強調されていたように思う。テスラに愛想を尽かされる原因となった気まぐれな若手技術者の処遇、あるいは資金繰りの失敗で社長の座を追われたくだりは彼が発明家としては優れていても経営家としては無能であることを示しているし、パクられたとはいえ激怒のあまりウェスティングハウスの名誉を大きく傷つける中では、彼の妻、子供に対する家族愛や「人殺しの発明はしない」というコンプライアンス意識もなんだか手垢のついた建前のように思えてしまう。人間臭い、という言葉ではくくり切れない彼の野獣じみた部分に刺激を受けることができたのは演出方の面目躍如かもしれない。

ところで、肝心の電力戦争の裏工作バトルはなんだかよくある探偵ドラマのような感じで、これだったら我らが島耕作のほうがもっとエグいことをしてるという印象が強い。脚本としてはもっと産業スパイとか政治家の介入とか何か盛り込んだほうが良いんじゃないかと思わされたが、そうはいっても史実映画だし二時間という尺ではテスラがカギを握っているという伏線を張るくらいが精一杯なのかも知れない。とはいえ、19世紀末であっても企業や有名人のコンプライアンスというものは重要なのだと体感できた作品であった。

(なお、エジソンの電球発明には欠かせない日本の竹の話しも出てくる。典型的な理科系音痴だった自分が化学のテストで唯一回答できた問題だった)

 

映画『今宵、212号室で』を観る

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ムービーオン山形で、映画『今宵、212号室で』を観てきた。

マリアとリシャールの夫婦は結婚して25年になる。マリアは「結婚生活を続けるには多少の火遊びも必要」という論理でひそかに不倫を楽しんでおり、アスドルバルという若い愛人との逢瀬を終えて家に戻るが、置きっぱなしのスマホにアスドルバルから求愛のメッセージが来ているのを夫のリシャールに見られ、不倫が発覚してしまう。不快感を露わにマリアを問い詰めるリシャール。やがて「一人にさせてくれ」と拗ねるリシャールを置いて、マリアは向かいのホテルの212号室に一晩泊まるのだが、そこに時を超えて25年前の若いリシャールが現れる。

若いリシャールとやりとりを重ねながらもマリアは逢瀬を楽しむが、突如そこにリシャールの初恋の人で、二人の結婚とともに彼の前から姿を消したイレーヌという音楽教師が25年前の姿で現れる。マリアを挑発し、ホテルを出て向かいの家で飲んだくれるリシャールの許に向かい、25年前の想いを伝えて誘惑するイレーヌ。だが、リシャールは身体を重ねながらも、愚直にマリアを信じる気持ちを伝える。一方、マリアの許には歴代の不倫を楽しんだ15人の元彼が現れるが、若いリシャールが彼らを退場させる。

イレーヌは傷ついて近くのパブで落ち込むが、マリアは「未来を信じなさい」と言っていつの間にかソンム湾の海辺にある小さな家に辿り着き、夫も子供もなくても幸せに暮らしている現在のイレーヌに会って語り合う。若いリシャールはこれまたいつに間にか逢いに現れたアスドルバルを退場させるも、彼に殴られて負傷してしまう。若いリシャールはイレーヌと入れ替わりに向かいの家で治療を受けながら現在の自分と語り合う。やがて元彼たちも含む全員がパブに集まり、現在のリシャールはマリア、イレーヌ、若い自分と語り合いながら「四人で結婚しよう」と話しを持ち出す。

いつの間にかホテルの部屋には朝が来ており、元彼たちは消えている。マリアは二人のリシャールとイレーヌが寝ている部屋にそっと鍵を掛け、212号室を出てホテルを後にする。ちょうど家から出てきたリシャールと鉢合わせし、「今夜は帰ってくるか」「そうね、予定もないし」とだけ軽く会話して、軽快に歩き出したのだった――。

 

カンヌ国際映画祭では「ある視点」部門の最優秀演技賞をアリア役のキアラ・マストロヤンニが受賞したらしいが、自分はむしろリシャール(現在)役のバンジャマン・ビオレの渋さにだいぶやられた感じである。どれだけ年季の入った俳優なのかと調べたら、本職はミュージシャン、しかもキアラの離婚した元夫ということで驚き。リシャール(若い頃)役を演じた俳優も、マリアの心を掴みつつちゃっかりイレーヌも自分のものにしたいと思っているふしがある俗物さをしっかりと演じていた。

道路一本を挟んだ家、ホテルの212号室(とパブ)という舞台とシナリオを考えると、これは小規模で若者も年寄りもいる劇団が芝居でやるにも向いているストーリーかも知れないが、演技にかなりの技術がいるため場末の劇団では無理な気もする。

いかにもフランス映画という感じだが、この映画の演出上のテーマは割と古典的な「赦し」と「成長」かと思われた。実際最初は反目し合ってたマリアといイレーヌがパブで友情を抱くシーンや、リシャールが若い自分をそれと知らず間男と信じて、それでも寛大に心を通わすシーンはぐっと来るものがあった。

マリアとリシャールはこのあとどうなるか。火遊びは止めないだろうと思われるが、少しリシャールのことを見直したマリアは、夢か現かも知れないリシャールとの関係性の中で、人間としても一回り大人になったのだろう。平野啓一郎氏の『マチネの終わりに』ではないが「未来は過去を変えている」にも通じるストーリーだった気がする。もっと言えば、大人になるとは過去のある時点で大人だった自分を探すことなのだ。

映画『コリーニ事件』を観る

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フォーラム山形で、映画『コリーニ事件』を観てきた。実際の事件ではなく、ベストセラーとなった推理小説を映画化したものらしい。

新米弁護士のカスパーは、ひょんなことからある殺人事件の被告人の国選弁護人となる。ファブリツィオ・コリーニという被告人は、実業界の大物であるハンス・マイヤーをベルリンのホテルで記者と偽って面会の機会を得、銃撃して惨殺したらしい。だが、カスパーにとって被害者ハンスは、両親の蒸発で貧しい少年時代を送っていたカスパーを拾い、学を授け、大学に進学させて弁護士の職を得る手助けをしてくれた大恩人だった。既に彼の息子夫婦、孫の片方は事故死しており、残された孫娘のヨハナと悲しみに暮れる中、嫌々ながらファブリツィオの弁護を始めるが、彼は頑として黙秘を貫く。そうしている間にも、犯人性を裏付ける証拠は次々と提供され、無関係の罪なき老人を惨殺した悪質な犯罪者として「謀殺」の罪による終身刑がほぼ確定的となっていた。

しかし、検察公証人として敵味方に分かれた恩師・マッティンガーは取引を持ち掛ける。ファブリツィオの自供が得られれば、検察庁では「然るべき動機があっての情状酌量」を認める「故殺」で起訴する。その場合の罪は短期服役と大幅に減刑されるという。板挟みとなって行き詰ったカスパーが、匙を投げようとしたその時、ファブリッツィオが口を開いた。彼は裁判長に審理中断を申請し、わずかな証拠を手掛かりにイタリアの某所に飛ぶ。ナチス犯罪センターに調査を依頼し、現地での聞き込み調査を経て浮かび上がってきたのは、1944年に若いハンスがナチの武装親衛隊の一員としてこの地を訪れ、パルチザンのテロで独軍兵士二人が死亡した報復に民間人二十人を銃殺した、その中にファブリツィオの父親も入っていたということだった。

再開された法廷で衝撃の事実を公表し、イタリアから来た証人がハンスの蛮行を明らかにする。マッティンガーはハンスが1968年に姉弟でハンスを起訴したが却下された事実を訴え、弁護側は一時窮地に追い込まれるが、カスパーはマッティンガーが法務省で働いていた際に、謀殺ほう助者は故殺の扱いで、15年の時効とするという所謂『ドレーアー法』の制定会議に出席していた事実を探り当てた。当時の刑法判断に比べれば妥当だと反論するマッティンガーに「では現在の法解釈では、ハンス・マイヤーの不起訴は妥当か。これでも『罪なき人を惨殺した』という主張が罷り通るのか」と問い詰め、マッティンガーは窮して「違う」と証言。法律条項・法解釈の空白と特異点が明らかとなり、どよめく法廷の中で裁判長は、判決を明日とすると述べて閉廷。カスパーとファブリッツィオは会心の握手を交わすが、翌日の法廷にファブリッツィオは現れなかった。裁判長は「被告人は昨夜自殺した」と告げ、審理終了を告げたのだった――。

今回は社会派サスペンスとあって、個々の俳優の演技よりもミステリーとしてのストーリー性を、ドイツ司法の実情と戦争の惨禍にわかりやすく言及しながら重視している印象だった。↑のあらすじ説明ではわからないし、私も法の論理をうまく説明できない人間なのだが、ファブリッツィオが犯人で間違いない点を踏まえて、要は「『殺されても仕方なかった奴だった』と立証できれば情状酌量の余地はあるがね」と検察側が隙を見せたのである。それに一筋の光を見つけて調べていたら、ドイツの戦争に伴う歴史の暗部が晒されたのだ。

終盤で争点となった「ドレーアー法」については邦語で紹介した文献はなく、記事に頼らざるを得ない。

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ナチ政権時代、多くの人間に死刑判決を下してきた司法関係者たちは、戦後「職分を遂行しただけ」と処分を免れた。中には戦後、西ドイツ政権でまた司法の要職に就いた者もおり、制定者のドレーアーもその一人だった。彼は謀殺ほう助者の「故殺として減刑」扱いと「15年で時効」という条項を決定し、そのため軍命令の複雑さで犯行が特定できなかったり、1945年の終戦から15年経っていることを理由に多くの戦争犯罪者が訴追されなかったということらしい。この法律の穴は小説の反響とともに話題とされたそうで、2012年に法務省で調査委員会が設置され、遅まきながらの法整備が急がれているという。

国家ぐるみの過去の克服、表向きは名士であっても「親ナチ」の過去を抱える人間(私が大学1年の頃、受験期間中に『ブリキの太鼓』を読んだドイツのノーベル賞作家ギュンター・グラスナチス武装親衛隊のメンバーであったことを告白し話題となった)の葛藤は今なおドイツという国の宿題として息づいているということが知れる映画だったろう。記事の通り、作品は純粋に作品として楽しんで、見終わった後に背景を調べるのも勉強になりそうだ。

あと、この映画は忘れることのできない教訓を孕んでいる。「99人にとって善人と認められていても、1人に悪人と見做されていたがために名声が地に堕ちることもある」という、要するに分人主義の落とし穴である。最近世に出てくる如何わしい有名人たちは、果たしてこのことを本当に理解しているのか?という愚痴はさておき、ハンスは戦地で民間人を虐殺した一方で、『トルコ野郎!』と罵る孫を叱って「ほっとけばケバブ屋の店員」だったカスパーを救うという行為もした。戦争犯罪というものは、そういう個人の善行と、その恩恵に授かった人間との分人をも殺してしまうのである。

 

映画『その手に触れるまで』を観る

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ムービーオン山形にて、『その手に触れるまで』を観てきた。

ベルギーの作品で、監督はジャン=ピエール&リュックのダルデンヌ兄弟という、その道では有名な兄弟監督らしい。正式なタイトルはLe Jeune Ahmed

都会で母親と兄と暮らすアメッド13歳は、つい最近までゲーム三昧の普通の子だったのに、いつからかイスラム教の聖典コーラン』に夢中になり、導師と呼ばれる乾物屋のおっちゃんの教えで敬虔なムスリムから次第に過激思想に走るようになる。ついにナイフを靴下の中に忍ばせて放課後アラビア語クラスを開くイネス先生を襲撃するが殺人は未遂に終わり、少年院に収監されることになる。監獄の中でもコーランは手放さないが、教育監や弁護士、面会に来た母、入院仲間、更生プログラムで出逢った農場の娘ルイーズとの交流の中で、少しずつ変わっていき、社会性を身に着けていく。そして、面会を希望するイネス先生に会いたいと希望し、心理士の面接などプログラムを順調に消化していくが、一方で先端物を作って再度の襲撃を企図する一面もある。結局、コーランの女性とのふれあいを禁じるくだりを固く守ろうとするアメッドは、心を通わせ合うルイーズの想いを振り切り、護送中に脱走して再度イネス先生の放課後クラスを襲撃しようと3階の教室まで壁をよじ登るが、転落して脊髄をやられ、駆け付けたイネス先生に動けないまま「許して」と請うのだった。

まず、この映画はカメラワークが秀逸と思った。視線は完全にアメッドの位置か、アメッドがもう少し成長したらと思われる高さから撮られており、子供の自分とちょっと大人になった自分、それを持て余している自分というものを表わすのに絶妙な視点設定となっている。

更に、導師というおっちゃんの演技がうまい。冒頭部分ではムスリムたちの礼拝を仕切るなど、案外ちゃんとした人なのかなと思いきや、普段は乾物屋と二足の草鞋で、地域のムスリムの子供たちに「歌で覚えようアラビア語単語講座」の授業を提案するイネス先生を「神の言葉を冒涜した者」と見なしてアメッド兄弟をけしかけることで妨害し、挙句の果てに「聖戦の障害」と排除を示唆し、殺人に失敗したアメッドが逃げ込んで来たら逃げ込んできたで「俺はそこまで言っていない」と保身を図り結局教唆の罪で逮捕される。ここでアメッドはおっちゃんのせいで、若干過激派のムスリムの教えに傾倒してしまったことが示唆される。

そして、この映画のキーは西欧社会で暮らすムスリムの「選択」ということでもある。イネス先生は「歌で覚えようアラビア語単語講座」の開講にあたっては、おそらく信仰にも配慮してムスリムの保護者たちへの説明会を開催するなど手順を踏まえた。それゆえにムスリムの反応は「日常会話で役立たなくても、コーランで言葉を覚えるのが手順というものだろう」「いや、フランス語に加えて日常的なアラビア語会話を身に着けたほうが就職の幅も広がっていい」と分かれる。文化的な信仰が先なのか、経済的合理性というものが先なのか――。異文化理解といば聞こえはいいが、実際は絶え間のないアイデンティティの選択でもある。この問題を理解するには、のめり込みやすいアメッドはあまりに幼過ぎた(一方で13歳にして因数分解を解くなどアスペルガー的な高い学習能力を示すシーンもあったが)。

前稿でも記したが、人が過去と訣別して変われるかどうかは結局理解者との分人主義の問題である。少年院での更生プログラムの中、「僕は変わったんでしょうか」と少しずつ打ち解けてきた教育監に問い、「それは君自身が示すことだ」とカッコいいが無理解な答えが返ってきてしまったことに、この作品の悲劇性が込められていると思った。

映画『SKIN/スキン』を観る

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フォーラム山形で、映画『SKIN/スキン』を観てきた。本編の前に、21分の短編映画が上演され、構造がよくできている短編の方が映画祭で好評を博したようだ。

貧しい生活を強いられているブライオンは、白人主義者の団体の主要人物となっている。団体は隠然たる勢力を持っていると思われる怪しいおっさんによって、宗教教団なみの厳しい組織となっており、ブライオンも育ての親がその団体だからと渋々とは思われるが協力している。だが、行きずりで3人の娘の謡いで収入を得ていると思われるシングルマザーのジュリーと出会い、交際が深まるうちに次第に足を洗って新しい生活を始めようと希望を抱くが、同時に黒人や移民のなぶり殺しにも手を染める団体の活動内容にも疑問を持つようになったのが周知するところとなり、ついに家を捨ててジュリーと逃避行に打って出る。新居まで追いかけ、時に銃撃も辞さず徹底的に追跡を続ける団体の幹部たち。ジュリーたちとも別れ、孤独になったブライオンに、反ヘイト主義政治運動家の黒人ジェンキンスが手を差し伸べる。ブライオンは、最後の望みを賭けて身体のタトゥーを消し去り、過去との決別を図る。

物語は、2003年に創設されたスキンヘッドとタトゥーの集団『ヴィンランダーズ』の一員・ブライオンの実話に基づくものらしい。件の団体の描写もその内情に準じているようで、ヴァイキングという集団認識や北欧っぽい文化様式が使い回されている。教団内の戒律は厳しく、粛清への協力による「昇進」も奨励されている節があった。おいおいおい、ヘイトくらいでなんでオウムみたいな組織になってるんだよ、と思ってしまったが、これが現実だから怖い。タトゥーの形状から、ナチズムへの傾倒もそれと知れる。

途中から、この手の人間が過去と訣別するという話は結局最後無惨な結末に終わるという傾向を思い出し、実際そういう流れになってきたので半ば諦め気味で観ていたが、最後は自白による捜査協力でFBIが団体を一斉摘発し、禍根の根は断たれる。そして変われたかどうかは知らないが、事実としてブライオンは600日余りかけて手術でタトゥーを全て消し去り、抱き締めたり別れたりヒステリーを起こしたりして随分身勝手が目立ったジュリーとよりを戻して幸せに暮らす。エピローグでは現在犯罪心理学を学び、転向者として講演活動を通じて社会の包摂に尽力する近況が紹介されていた。

私が個人的に興味を持ったのは、実在の人物で現在も反ヘイト運動に生涯を捧げるジェンキンスなる人物である。彼は決してキング牧師やマルコムXのような聖人としては描かれておらず、差別犯罪者は全米ネットに顔入り動画をアップロードして求職の道を断つなど、だいぶエグいことにも手を染める現実主義者として描かれていた。おそらく、聖者が現代に生まれてもこういう活動の形態を取っているだろうという含意も見て取れ、綺麗ごとや一筋縄では処理しきれない現代の反ヘイト運動の難しさを象徴している。だからこそ、最後にブライオンの転向をアシストし、現在もブライオンと友人として親交が続いているというエピローグでは、前半部分の登場の少なさから、随分ちゃっかりとした親友だなあ、と若干すねた感想も出てしまった。

ところで、本作品はブライオンが団体の幹部に育てられレイシズムと忠誠を教育として刷り込まれたのを引き合いに「人間は果たして過去と訣別し、変わることができるのだろうか」という裏テーマをある程度普遍化している節が見られる。一般論として私の答えを言うなら、「理解者次第」ということだろう。ジェンキンスに助けられたブライオンは運が良かったし、精神障がい者の社会復帰には精神科医や福祉士の理解が必要不可欠だし、犯罪者の更生には刑務官や支援団体などの協力が必要だ。現状まだまだそれは出会いという「運」によるところが大きいことを示す映画として、今後この作品は必見となってゆくことだろう。