la dolce vita

記者による映画解説(ネタバレあり)。ときどき書籍にも言及します。

映画『その手に触れるまで』を観る

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ムービーオン山形にて、『その手に触れるまで』を観てきた。

ベルギーの作品で、監督はジャン=ピエール&リュックのダルデンヌ兄弟という、その道では有名な兄弟監督らしい。正式なタイトルはLe Jeune Ahmed

都会で母親と兄と暮らすアメッド13歳は、つい最近までゲーム三昧の普通の子だったのに、いつからかイスラム教の聖典コーラン』に夢中になり、導師と呼ばれる乾物屋のおっちゃんの教えで敬虔なムスリムから次第に過激思想に走るようになる。ついにナイフを靴下の中に忍ばせて放課後アラビア語クラスを開くイネス先生を襲撃するが殺人は未遂に終わり、少年院に収監されることになる。監獄の中でもコーランは手放さないが、教育監や弁護士、面会に来た母、入院仲間、更生プログラムで出逢った農場の娘ルイーズとの交流の中で、少しずつ変わっていき、社会性を身に着けていく。そして、面会を希望するイネス先生に会いたいと希望し、心理士の面接などプログラムを順調に消化していくが、一方で先端物を作って再度の襲撃を企図する一面もある。結局、コーランの女性とのふれあいを禁じるくだりを固く守ろうとするアメッドは、心を通わせ合うルイーズの想いを振り切り、護送中に脱走して再度イネス先生の放課後クラスを襲撃しようと3階の教室まで壁をよじ登るが、転落して脊髄をやられ、駆け付けたイネス先生に動けないまま「許して」と請うのだった。

まず、この映画はカメラワークが秀逸と思った。視線は完全にアメッドの位置か、アメッドがもう少し成長したらと思われる高さから撮られており、子供の自分とちょっと大人になった自分、それを持て余している自分というものを表わすのに絶妙な視点設定となっている。

更に、導師というおっちゃんの演技がうまい。冒頭部分ではムスリムたちの礼拝を仕切るなど、案外ちゃんとした人なのかなと思いきや、普段は乾物屋と二足の草鞋で、地域のムスリムの子供たちに「歌で覚えようアラビア語単語講座」の授業を提案するイネス先生を「神の言葉を冒涜した者」と見なしてアメッド兄弟をけしかけることで妨害し、挙句の果てに「聖戦の障害」と排除を示唆し、殺人に失敗したアメッドが逃げ込んで来たら逃げ込んできたで「俺はそこまで言っていない」と保身を図り結局教唆の罪で逮捕される。ここでアメッドはおっちゃんのせいで、若干過激派のムスリムの教えに傾倒してしまったことが示唆される。

そして、この映画のキーは西欧社会で暮らすムスリムの「選択」ということでもある。イネス先生は「歌で覚えようアラビア語単語講座」の開講にあたっては、おそらく信仰にも配慮してムスリムの保護者たちへの説明会を開催するなど手順を踏まえた。それゆえにムスリムの反応は「日常会話で役立たなくても、コーランで言葉を覚えるのが手順というものだろう」「いや、フランス語に加えて日常的なアラビア語会話を身に着けたほうが就職の幅も広がっていい」と分かれる。文化的な信仰が先なのか、経済的合理性というものが先なのか――。異文化理解といば聞こえはいいが、実際は絶え間のないアイデンティティの選択でもある。この問題を理解するには、のめり込みやすいアメッドはあまりに幼過ぎた(一方で13歳にして因数分解を解くなどアスペルガー的な高い学習能力を示すシーンもあったが)。

前稿でも記したが、人が過去と訣別して変われるかどうかは結局理解者との分人主義の問題である。少年院での更生プログラムの中、「僕は変わったんでしょうか」と少しずつ打ち解けてきた教育監に問い、「それは君自身が示すことだ」とカッコいいが無理解な答えが返ってきてしまったことに、この作品の悲劇性が込められていると思った。