la dolce vita

記者による映画解説(ネタバレあり)。ときどき書籍にも言及します。

映画『MOTHER マザー』を観る

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フォーラム山形で映画『MOTHER マザー』を観てきた。監督は大森立嗣。

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あらすじ

子供の周平(奥平大兼)に手足のごとく金策を指示するシングルマザーの秋子(長澤まさみ)は、根っからのパチンコ中毒とそのための度重なる借金で家族にも縁を切られ、行きずりの関係でリョウ(阿部サダヲ)と同棲・共犯を始めるが、娘の冬華を身籠ったことをきっかけに破綻してしまう。

五年後、冬華は産んだもののゆく当てもなく路上生活を続けていた三人は養護施設に保護され、成長した周平は職員の亜矢(夏帆)と心を通わせながら勉強への意欲を覗かせるが、突然リョウが舞い戻り、ヤクザの追求からの夜逃げで全ては台無しになってしまい、挙句の果てにリョウだけが姿を消してしまう。その後なぜか社長の厚意で清掃会社に拾われるが、金銭トラブルのすえに再び出奔する。

最後の手段として実家の祖父母を殺害し、保険金を得ようと秋子は周平に殺害を指示。周平は命じられた通り祖父母を惨殺するが、裁判では周平は秋子の教唆を否定し、強盗殺人は全て自分の判断でやったと主張して懲役12年の判決を受ける。周平との面会人として再会を果たした亜矢は、なぜ母親の指示であると自白せず罪の重い道を選んだのか、と問い詰めるが、周平は「だって、今まで全部駄目だったから…俺、お母さんのこと好きなんです。好きなお母さんのためにやることも、駄目なんでしょうか」と言って面会は打ち切られた――。

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まず、阿部サダヲのわざとらしい演技が鼻につくきらいを除けばキャスト陣は大当たりと言って良いだろうと思った。今回、白髪や皺が増えた「いい歳」までを演じた長澤まさみは相変わらず演技が巧いし、周平役の奥平大兼もオーディションで選ばれただけあって嵌っている。長澤のお色気シーンは控えめだが、ご丁寧に長澤の色香に迷った挙句コンプライアンスを逸脱して破滅していく男(皆川猿時)まで描かれていた。

気になったのは、この作品の演出は多くの面で是枝裕和監督の作品(具体的には『誰も知らない』『三度目の殺人』『万引き家族』か)と類似しあるいは対称を描いている匂いがすることである。実際の事件をモチーフにし、企画段階から数年を閲していると思われるから直接のオマージュでもアンチテーゼでもない、ただ単に近似したテーマを扱ったがゆえと思われるが、それにしても出来過ぎな箇所が多い。

例えば、兄と妹、学習意欲と知能は非常に高い少年、他人の罪まで引き受けるという犠牲観、正義を押しつけられるだけの法廷、最後に茫然と佇むヒロインの横顔を撮るカメラワーク、これでもかと描かれるその日暮らしの貧困、「全てを否定されてきた人間が、最後に愛する者のためになすことをなすのも駄目なのですか」という問い、などは是枝作品と酷似している箇所があり。

一方で、「疑似家族の幸福、対、血縁家族の崩壊」「子供に些事(万引き)でも教えようとした親、対、完全なネグレクト」とまるで点対称を描くかのように対照的に描かれている面もあった。この奇妙な符合は今なお気になっており、大森監督の演出上の意図を知りたいところである。

母子を追い詰めていく貧困と負と無学の連鎖は自分も経験があるため、他人事ではないと思えた。この映画の一番の負の問題提起は親が学ばなきゃ子供も学べないという点である。折角養護施設に拾われ、フリースクールで読書という経験を得て学校への意欲を掻き立てられた周平を、継父リョウと母秋子は「お前じゃだめだ」と否定する。これは階層や愛情云々を超えて親が絶対にやってはいけないことである。どんな環境でも翼を折らない誰かが必要なのだという真実を、夏帆演じる施設職員の好演が示しているだろう。あと、秋子は学歴がないにしろ、育った環境は妹が大学に通って真っ当に暮らすほどありふれた環境であったのが台詞から匂わされる。毒親はどこにでも発生する要素があるのだ。

 

*付記*

この映画は埼玉県川口市で2014年に実際に起きた強盗祖父母殺人事件と、被告の少年の闇を描いた『誰もボクを見ていない』にほぼ準拠しているらしい。経緯を調べると大体映画の内容とほぼ同じストーリだった。

書籍『問いのデザイン―創造的対話のファシリテーション』を読む

 

問いのデザイン: 創造的対話のファシリテーション

問いのデザイン: 創造的対話のファシリテーション

 

買ってきた書籍『問いのデザイン―創造的対話のファシリテーション学芸出版社を読んだ。

私自身に大学院のキャリアはないが、学生時代に研究をやっていて「問い」がアウトプットの質を決める的な話を耳に胼胝ができるほど聞かされた思い出がある。そのせいか文学作品を読むときでも「この作品の問いはどういったものなんだろう?」「どうも問いのピントがずれてるな」と考えて読むようになった。

 この書籍は前半はどちらかというと知的で創造的な対話の作法に重きが置かれているが、後半になればなるほどファシリテーターのための本になっていく。著者の宣伝上仕方ないと言ったところか。

なにかの「問い」を立てて、それを拡幅しながら実践をするという作業は、そういう環境に育った人間でなければできない作業で、後発的に優秀な人材を目指す人間は意識して取り組む必要がある。とりわけ、同一ワークのテーマに関して参加者が異なる前提を持っているせいで話が噛み合わない、一向に進行しないという場合は本書のファシリテーション能力が必要不可欠となるだろう。また、実学系の卒論を書く際に、原点的な問いを設定してモチベーションを高めるのにも有効かも知れない。

入社数年目で、大きなプロジェクトを任された際などに読むべき本となるだろう。これからも本書が多くの読者に読まれることを望む。

映画『レイニーデイ・イン・ニューヨーク』を観る

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フォーラム山形で、映画『レイニーデイ・イン・ニューヨーク』を観てきた。ウディ・アレン監督の新作のようだ。

主人公のギャツビーと彼女のアシュレーは同じ郊外の裕福な大学のカップルで、ニューヨーカーのギャツビーは賭博趣味や一度アイビーリーグの大学をドロップアウトして入り直した過去があるが、基本的には知性も知能もあり、ピアノの即興弾き語りも難なくこなせる。一方アシュレーは銀行家の令嬢で、彼女と付き合えば将来の出世も確約されるだろう生まれ育ちの良い女子大生だが、男知らずというか世間知らずというか、ちょっとあどけなさが残るキャラクターである。物語は大学の学生新聞の記者として、著名な映画監督のインタビューを目的にマンハッタンを訪れるアシュレーを、地元のギャツビーがエスコートするという手はずだったのだが…という流れ。

ネタバレになるが、最後にこの二人が大したすったもんだもなく別れてしまうというのは意外だった。エンタメに作られてあるから、まあ、なんだかんだで最後はハッピーエンドになるだろうと思っていたが、一周回って落ち着いた先は高校の友達の映画ロケで仕事とはいえ口づけを交わした女友達の妹と結ばれるという結末。アシュレーもアシュレーで、気難しい映画監督や浮気性なスター俳優に振り回されて戻ってきた挙句、最後は後述の事情でとくに未練もなく終わってしまった。

この映画の副次的なテーマは階層社会だろう。ギャツビーは気にしていないようにみせかけているが、アイビーリーグの高慢な連中の鼻持ちならなさに対するコンプレックスめいたものを確かに抱いている節が見受けられた。アシュレーと別れ、場末のホステスをアシュレーと偽装して母親のパーティーに連れていき、バレて母親に怒られると思いきや、母親も娼婦出身で、未だ上流階級の見栄を追い続ける母親のエゴのために今があると知らされたギャツビーは、逆に吹っ切れた様子でアシュレーと別れ、女優と結ばれてしまう。雨が全てを洗い流す効果を確かに持っていたと思える一方で、こういう高慢と偏見的なネタの汎用性を改めて確認した次第である。

映画『お名前はアドルフ?』を観る

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フォーラム山形で、映画『お名前はアドルフ?』を観てきた。フランスで舞台化された作品をドイツで映画化したものらしい。

問題の一家は独文学の教授である夫ステファンと国語教師の妻エリザベトがいて、妻が子供の頃に孤児として引き取られた楽団のクラリネット奏者レネはエリザベトのよき親友(ついでに言うと夫婦は幼馴染カップル)。エリザベトの弟のトーマスは無学ながら不動産ビジネスがうまく行って裕福な経営者となり、女優としての成功を目指す妻アンナを支えている。更に夫を亡くしたのち山辺に隠居して悠々自適の生活を過ごす母ドロテアがいて、学のありなしはそれぞれだが比較的教養のある階層の家族と言えよう。演者には『帰ってきたヒトラー』で見知った顔もあり、作中にも同作の名前が登場する。

久しぶりに一族が会したパーティーで、妊娠したアンナを話題に出して惚気るトーマスに、エリザベト、レネ、ステファンは「名前は何?」と問う。謎かけで引っ張ったあげく、トーマスが命名を決めた名前は「アドルフ」ということだった。むろんあの独裁者と同名なんて狂気の沙汰だ!とステファンが反発し、押し問答のすえに家族の思いもよらない秘密が明らかにされていく。

私の知識では、ドイツではアドルフという命名は厳禁、ヒトラー姓の者は改姓を余儀なくされたと聞き知っていたが、厳密にはアドルフという命名は公的機関に「然るべき理由」を提示すれば認められるケースがあるらしい。なにもかも取り返しがつかなくなってしまった物語の結末では理論武装したトーマスの冗談であったことが(今更ながら)明かされ、踊らされる知識人ステファンの姿の滑稽さが振り返ればの一笑に値する。

で、肝心の狂言のような物語の展開であるが、私にはなんだか消化不良に感じられた。とくにレネの養母ドロテアとデキていたという設定は本作の山場のように演出されていたが、私にはただ気持ち悪い昼ドラ的要素の切り貼りのようで、そういうのが好きな観客も呆気に取られて面白いとは感じ取れないと思えた気がする。ほかの登場人物の秘密も、笑えるのはステファンの博論がエリザベトの盗用であったというオチくらいで、こんな安っぽいネタに振り回される家族が滑稽を通り越して痛いという印象しかなかった。

触れ込みが誇大広告だったから、私はドイツ現代史の暗部でも掘り起こしてくれそうだと期待していたので、辛口の評となってしまった。だが例えば昨年観た『僕たちは希望という名の列車に乗った』のほうが、歴史性というものを感じ取れたという結論だった。もちろん、こちらは実話であるが。

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映画『光に生きる―ロビー・ミューラー』を観る

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山形国際ドキュメンタリー映画祭ライブラリの金曜上映会で、『光に生きる―ロビー・ミューラー』を観た。

欧米各国の、主に70~90年代の映画で撮影監督として独特のカメラワークでプロたちを唸らせた、ロビー・ミューラー(1940~2018)のキャリアを、彼の遺した膨大な映像集と、彼がともに仕事をした映画監督たちの証言で振り返るドキュメンタリー映画で、山形では2019のインターナショナル・コンペティション部門への選出である。

私はとくにシネフィル、ヨーロッパ映画に詳しいわけではないので、コンビを組んだ監督も作品もよく解からなかったのだが、「光のタッチこそが彼のライフワーク」「ビデオカメラを持たせるといつも流れるような妙味のある映像を撮る」的な人物評がどの監督からも異口同音に出ていたあたり、映画がモノクロからカラーに変わり、微妙な「光」の表現が映像の出来を左右するようになった時期と歩調を合わせるかのように映画人としてのキャリアを歩んだ彼は、おそらく現在の「あたりまえ」を創造した先駆的な表現者だったのだろう(彼の無名時代の勉強や影響の話しがもっと引かれていても良かったと思った)。

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彼のキャリアの集大成となったラース・フォン・トリアー監督の『ダンサー・イン・ザ・ダーク』では、360度を回るシーンの光加減を完璧に制御し、踊るカトリーヌ・ドヌーヴを舐め回すように撮っている。映画ではこのシーンを撮る技術の由緒も細かに紹介され、一介の仕事人として映画の常識を乗り越える創造力は偽物ではなかったことがわかる。監督も、ロビーを信頼して全てを任せていたようだ。

日本では黒澤明が光の当たり具合に非常にうるさく、強い光源を志村喬に当てたら時代劇のカツラが焼け爛れてしまったというエピソードを仄聞する限りだが、ロビー的な撮影の専門家はいたのか。少しこの辺を勉強してみたいところである。

ちなみに彼は仕事人の傍ら家族を愛する者でもあり、国外への遠出に際してもオランダの家族にまめに手紙やビデオレターを送っていたらしい。出演していた娘も息子も父のことを尊敬する目で語っており、晩年は認知症を患って真っ当な行動もままならなかったロビーも、廃人のようになっていたのかと思いきや子供たち家族と仕事を共にした戦友の尊敬を受けながら、2年前に亡くなるまで10年ほどを幸せな好好爺として過ごしたようである。そして彼の仕事は、映画史と記憶の中に残っていく。